六道骸と継承式編のセリフについて思ったこと

私の青春時代はアニメ「家庭教師ヒットマンリボーン」とともにあったと言っても過言ではないでしょう。アニメの放送を毎週楽しみにしていた程度ではありましたが、心に占める割合はどのアニメ、ゲームよりも大きかったです。

 

そんな私がこの作品の中で推していたのが、六道骸というキャラクターです。彼についての詳しい説明は省きますが、中二心をくすぐる能力やミステリアスで底知れない精神、そして自信とカリスマ性に惚れてしまったのです。

 

この記事は、アニメしか履修していなかった私が十年近く越しに漫画を読み彼について重要な要素を発見してしまったため、その内容を整理する意図で作成しました。もしかしたら当時から有名な話かもしれませんし、そうではないかもしれません。しかし、私自身が彼を理解しようとした軌跡としてこれを残しておきたいと思います。ここでは原作の漫画のみを使用しますが、他にも考察要素に心当たりがある方はご一報ください。

 

 

 

さて、その問題のセリフはコミックス35巻で発されます。骸が敵であるD・スペードに幻術を用いてクローム4人の姿を取って攻撃された時のものです。D・スペードの説明では、絆や情が深い相手に相対すると反射速度が遅れる、といいます。しかし、骸は全く動じませんでした。曰く、「僕にとって彼らは情で結ばれた仲間などではありません。僕自身です」D・スペードは驚きをもって『情すらも超えた一体感』と評しました。

 

では、どうして骸はこのような感覚を得るに至ったのでしょうか。他人に憑依する能力を持っている骸にとっては憑依できる味方は自分自身と等しいということなのでしょうか。これは素直な解釈だと思えますが、D・スペードによって否定されました。では、どのように考えるのが適当なのでしょうか。

 

まず、骸の言葉のすべてが真実というわけではないという可能性です。すなわち、部分的に虚勢やはったりが混じっているという解釈です。しかし、この場合は彼の反応が全く遅れなかった理由を合理的に説明することが大変難しくなります。骸の言葉は真実であるとするのが自然でしょう。

 

次に、字義通りに骸にとってクロームらが一般的な情を越えた存在であるという可能性についてですが、これはフランがいることによって否定されます。フランはこの時点の骸にとってはそれほど多くの時間を過ごした相手ではなく、単純に術者としてのポテンシャルを買って近くに置いている相手です。例え未来で共に過ごした記憶を得ていたとしても、それは彼自身のものではありません。したがって、骸にとっての「仲間」が彼以外の人々にとっての仲間意識を単純に深めたものではないということです。つまり、一般的な情の向こう側ではなく全く別の考え方として、六道骸の価値観は存在するとするのが自然でしょう。

 

では、それはいったいどのようなものなのでしょうか。ヒントは、彼の出自にあると私は考えます。幼いころよりマフィアの人体実験として利用された彼は、一人でそのマフィアを壊滅させました。そして、マフィアに強い憎しみを抱くようになります。そして、物語に初めて登場したときの彼の目的はマフィアを殲滅し、世界大戦を引き起こすことでした。それは復讐であり、幼少期の記憶が駆り立てるものでしょう。

 

しかしこれは、自分のための行為だと言えるのでしょうか。そのときの彼の能力なら戦わず生きていくことはできるはずです。そうすれば、復讐者(ヴィンディチェ)に捕らわれることもなかったでしょう。また、「世界征服」ではなく「世界大戦」であることも引っ掛かります。思うに、骸はどこまでも我が強いように見られますが、その実自分というものが希薄なのではないでしょうか。マフィアと世界に復讐をせねばという義務感に突き動かされ、自分の意思なのかどうかわからなくなっているということです。

 

この「自分というものが希薄」という解釈は、彼の能力からも補強されます。骸の能力は六道輪廻に由来するものです。彼は、生まれ変わって今の自分ではない誰かになるという現象を誰よりも身近に感じているのです。そんな彼が現在の自分を強く持てなくなってしまうというのは、自然なことのように思えます。

 

このように、骸にとって自分と他人の境界は曖昧であり、この解釈を用いれば手下となる近しい人物を自分自身と表現することも説明できることが分かりました。

 

 

 

次に、以上の解釈に基づいて言いたいことがあるので、述べようと思います。骸の変化についてです。初期の彼は他人を「おもちゃ」と言い、憑依した味方の体も壊れてしまって構わないという姿勢でした。しかし物語後半の彼は相変わらず独特な価値観が見られるものの、味方となる人々を仲間と認めていることが伺えます。少年漫画特有の、仲間になった元敵が以前よりも丸くなる現象だとも取れますが、前述した結論を用いると少し違った見方ができます。

 

以前の骸の精神性ですが、彼はマフィアと世界への復讐という動機のために人間すら道具のようにして戦っていました。そしてそれは自分すら例外ではなかったのだと思います。自分自身も目的のために使われる「おもちゃ」だったのです。しかし、現在の彼は違います。沢田綱吉にクロームを任せ、「大事に扱ってください」と言う彼は、同様に他人に自分をまかせたり、自分自身を大切にすることができたりできているのでしょうか。エモですね……。

 

以上が、六道骸のオタクが初めて原作に触れ、感じ考えたことです。ここまで読んでくださりありがとうございました。