輿水幸子の「カワイイ」について
輿水幸子というキャラクターは、いつも自分のことを『カワイイ』と自称していることで有名です。彼女のセリフを読むと、徹頭徹尾カワイイ、カワイイ、カワイイ……カワイイのゲシュタルト崩壊を起こしそうです。
なぜ彼女はそんなにもしつこいくらいにカワイイを自称するのでしょうか。また、彼女のその姿勢はどのように形成され、今日に至ったのでしょうか。この文章は、幸子Pを自称する私が思う幸子の「カワイイ」というものの形とその由来について述べたものです。私の個人的な考えに基づくので、「そうなんだぁ」「ほんまか」などと相槌を打ちながら気軽に読んでいただけますと幸いです。また、断定していてももしかしたら事実と異なることがあるかもしれません。予めご了承ください。
まずは、幸子のキャラクター性について簡単におさらいをしましょう。シンデレラガールズにおいてアイドル自身の自己紹介ではなく第三者視点でキャラクターを紹介しているところは貴重で、ここではモバマスのフライデーナイトフィーバーのアイドル紹介を引用します。というか、私が知っているのはここだけです……。そこでは次のように紹介されています。『一見自信たっぷりな発言には、どこか虚勢や認められたい気持ちが見え隠れするとか。』
いかがでしょうか。私は短い文章でとてもよく彼女のことを表現できていると思います。もちろん十分とは言えませんが、これを起点にして考えてみましょう。まずこの文章から読み取れるのは、彼女が自信ありげな言動をすること、そこには虚勢と承認欲求が隠れていることの二つです。「自信ありげな言動」は自然に考えれば自信があるから起きるものです。しかし、虚勢と承認欲求があるということはどういうことが言えるのでしょうか。まずは彼女の過去にさかのぼって考えることにしましょう。
さて、彼女の生家はどのような環境であったと思いますか。まず確かなのは、両親は彼女を大変かわいがってきたということです。これは「あんさんぶる!」という四コマ形式のコミカライズが最も直接的に表現しています。該当の四コマでは「幸子4歳」という題で、両親と思われる大人に『とってもカワイイよ』『どんな子も幸子にはかないませんよ』と言われ、『ボクが一番?』と幸子が得意げになっている様子が見られます。14歳の彼女が見ている夢というオチではあるのですが、その他の要素から考えても史実としてしまって問題ないかと思います。裏付ける他のセリフとしてはぷちデレラの『パパもママも、ボクがカワイイって褒めてくれるんです!世間のみんなもそう思わせてみせます!』などでしょうか。このように、幸子は両親に玉のように大事にされて成長しました。そして、彼女自身も本当の意味で自分が一番可愛いと思って大きくなったのだと思います。幼い幸子が住む狭い世界においては、間違いなく彼女が一番だったのでしょう。
少し時間を進めて今度は小学校に入学したくらいの幸子について考えてみましょう。まず、彼女の学校はエスカレーター式の学校に通っています。母親が服を見繕うほどの溺愛ぶりからして、小学校では既に私立の学校だったのだと思います。しかしそこで幸子が会った人々は、彼女と同様に大切に育てられてきた子供たちです。彼女はそこで、自分だけが特別ではないと知ったのでしょう。また、才能というのは残酷なもので、幸子は運動も勉強もそれほど得意な方ではありません。彼女がレッスンや宿題に苦戦している姿は、たびたび描写されています。また、裕福な家庭が集まる私立の小学校ともなれば、習い事だってただやっているというだけではステータスとはなり得ない世界でしょう。そこで、幸子は自分が一番などではないのではないかと疑念を抱いたのだと思います。では、ここで彼女の精神はどのように変わったのでしょうか。そこで、現在の彼女の性質から考えてみます。もう一度彼女の紹介文を見て見ましょう。『一見自信たっぷりな発言には、どこか虚勢や認められたい気持ちが見え隠れするとか。』
愛する両親が与えてくれた絶対的な自信。それは大層心地よいものだったでしょう。ですから、両親の言葉を信じたい、嘘にしたくないという気持ちがあったと思います。しかし、それを完全に鵜呑みにして信じられるほど彼女はもう子供ではありません。どの分野でも、客観的な指標では一番とはなり得ないことを感じてしまったからです。ではどうしましょう。私は、ここで彼女がとった選択がまさしく「『カワイイ』の自称」であると考えます。これがどういうことなのかを説明するには、まず『カワイイ』という概念について説明する必要があります。
『カワイイ』とは、簡単に言ってしまえば輿水幸子による輿水幸子のための指標です。『かわいい』や『可愛い』とは似て非なるオリジナルのものです。まず、『カワイイ』が他の同音異義語と別物であることは、幸子自身の発言の節々から感じることができます。まず、普通の『可愛い』の辞書的な意味を述べておきます。大辞泉によれば可愛いとは、『①小さいもの、弱いものなどに心引かれる気持ちをいだくさま。②物が小さくできていて、愛らしく見えるさま。③無邪気で、憎めない。すれてなく、子供っぽい。』などといった意味です。
もちろんこの意味に収まるとみなせる用法がほとんどですが、これを逸脱したものとして例えば次のような発言が顕著でしょう。『0点よりも、満点のほうがカワイイ』『カワイイの限界』『カワイイとはボクそのもの』などです。そして、幸子はこうも言っています。『ボクがカワイイのなんて常識以前』『ボクがいつからカワイイかって?そんなの生まれた時からです』『ボクからカワイさを取ったら、何も残りませんよ?』これらのことから、彼女の言う『カワイイ』という概念は普通の『可愛い』とは少し異なる、彼女が生み出した彼女のためのものであるということであると考えられます。
これを踏まえて、自己のプライドを脅かすターニングポイントに至った彼女が『カワイイ』を自称し始めるという先程の仮説を考慮しましょう。すると『カワイイ』とは、客観的な一番の指標を失った彼女がそれでも自分の価値を信じるために生み出した概念ではないかと考えられます。彼女自身が生み出した指標であるならば、そこでは彼女だけが一番を決めることができます。しかし、これは自己の承認欲求を強引に満たすためのある種の逃げです。事務所に入ったばかりの彼女の発言を見ると、これがよくない方向にも働いていることが分かります。『ボクにレッスンが必要だとは思えません。だってボクはカワイイですからね。それだけで十分でしょう』つまり、『カワイイ』を自称することによって幸子が現状に甘んじて努力を怠ってしまうという面があるということです。
また、本来『カワイイ』を定義するのは幸子本人であるのですが、初期Rのセリフにあるように『ボクがカワイイって証明するの手伝ってくださいね!』と、他人に認めてもらうことにウェイトが感じられます。これは、客観的な評価に飢えた彼女が自分で生み出した『カワイイ』という概念を自分の中だけで完結させることでは満足できず、さらなる客観的な指標として他者の評価を求めたということでしょう。簡単に言えば、自我を保とうと自分を『カワイイ』と言い始めたけど他の人にも認めてほしくなったということです。
このように、初期の幸子の『カワイイ』は大変不安定な地盤しかありません。大した拠り所のない彼女にとっては、それでもつかむしかなかったのです。これは、14歳の真面目な女の子が自己のアイデンティティを見失って、新しいアイデンティティを自分で作ろうとしたという健気で胸が苦しくなるような、そんな物語です。
これで『カワイイ』という概念は、彼女が彼女自身を守るために生み出したヨロイであったという私の考えが分かっていただけたと思います。しかし、これで彼女の『カワイイ』は終わりません。彼女の『カワイイ』は彼女を高めるためにも機能しているのです。むしろ、私はこの面の方をこそ強調したいと思います。例えばアニメの輿水幸子というアイドルは、経験も頼りがいもある先輩アイドルとして登場します。もちろん『虚勢や認められたい気持ち』は依然としてあるものの、アイドルとしての自信や自負が見られます。これは、彼女が用いた『カワイイ』という魔法が上手く機能しているということでしょう。例えば、現在の彼女は常に上の『カワイイ』を目指して日々努力しています。(例)『カワイイ』を彼女自身が規定するのならば、自己の『カワイさ』よりも上のものを想定する必要はないはずです。しかし、彼女は現状に甘んじません。それは現在で満足しないという貪欲から来るのかもしれません。しかし、常に今よりも高みを目指す彼女の姿勢は美しく気高いものだと信じています。
ボクだって成長しているんですよ?本当のカワイさとはなにか。アイドルとして活躍するうちに、その考えも深まってきました。(「デレステ [自称・スウィートヒロイン]輿水幸子」より)
というセリフからも、彼女が真剣に前に向かって歩んでいるということが分かります。
また、現在の彼女は『カワイさ』に関しての余裕も有しています。
一番カワイイのはこのボクです!異論は…まぁ、あるでしょうけど(「デレステ [自称・カワイイ]輿水幸子」より)
というセリフからもその余裕が感じられます。自分の中の一番は譲らないが、人それぞれに一番があるということを認められているのです。それでいいと思えている彼女は、14歳の女の子としてはなんと大人なのでしょう。それまでに感じてきたこと、考えてきたことを考えると、愛おしくなります。
このように、かつては不完全だった『カワイイ』という概念も、今はより洗練されて彼女とともに前に進んでいるのです。
以上が、私が考える輿水幸子という女の子の『カワイイ』という言葉の由来と現在です。いかがでしょうか。割と仮定を置いたので解釈が異なるPもいるかと思いますが、そういう考えをしているPもいるのかと思っていただけると嬉しいです。ここまで読んでくださってありがとうございました。それでは失礼します。
六道骸と継承式編のセリフについて思ったこと
私の青春時代はアニメ「家庭教師ヒットマンリボーン」とともにあったと言っても過言ではないでしょう。アニメの放送を毎週楽しみにしていた程度ではありましたが、心に占める割合はどのアニメ、ゲームよりも大きかったです。
そんな私がこの作品の中で推していたのが、六道骸というキャラクターです。彼についての詳しい説明は省きますが、中二心をくすぐる能力やミステリアスで底知れない精神、そして自信とカリスマ性に惚れてしまったのです。
この記事は、アニメしか履修していなかった私が十年近く越しに漫画を読み彼について重要な要素を発見してしまったため、その内容を整理する意図で作成しました。もしかしたら当時から有名な話かもしれませんし、そうではないかもしれません。しかし、私自身が彼を理解しようとした軌跡としてこれを残しておきたいと思います。ここでは原作の漫画のみを使用しますが、他にも考察要素に心当たりがある方はご一報ください。
さて、その問題のセリフはコミックス35巻で発されます。骸が敵であるD・スペードに幻術を用いてクローム他4人の姿を取って攻撃された時のものです。D・スペードの説明では、絆や情が深い相手に相対すると反射速度が遅れる、といいます。しかし、骸は全く動じませんでした。曰く、「僕にとって彼らは情で結ばれた仲間などではありません。僕自身です」D・スペードは驚きをもって『情すらも超えた一体感』と評しました。
では、どうして骸はこのような感覚を得るに至ったのでしょうか。他人に憑依する能力を持っている骸にとっては憑依できる味方は自分自身と等しいということなのでしょうか。これは素直な解釈だと思えますが、D・スペードによって否定されました。では、どのように考えるのが適当なのでしょうか。
まず、骸の言葉のすべてが真実というわけではないという可能性です。すなわち、部分的に虚勢やはったりが混じっているという解釈です。しかし、この場合は彼の反応が全く遅れなかった理由を合理的に説明することが大変難しくなります。骸の言葉は真実であるとするのが自然でしょう。
次に、字義通りに骸にとってクロームらが一般的な情を越えた存在であるという可能性についてですが、これはフランがいることによって否定されます。フランはこの時点の骸にとってはそれほど多くの時間を過ごした相手ではなく、単純に術者としてのポテンシャルを買って近くに置いている相手です。例え未来で共に過ごした記憶を得ていたとしても、それは彼自身のものではありません。したがって、骸にとっての「仲間」が彼以外の人々にとっての仲間意識を単純に深めたものではないということです。つまり、一般的な情の向こう側ではなく全く別の考え方として、六道骸の価値観は存在するとするのが自然でしょう。
では、それはいったいどのようなものなのでしょうか。ヒントは、彼の出自にあると私は考えます。幼いころよりマフィアの人体実験として利用された彼は、一人でそのマフィアを壊滅させました。そして、マフィアに強い憎しみを抱くようになります。そして、物語に初めて登場したときの彼の目的はマフィアを殲滅し、世界大戦を引き起こすことでした。それは復讐であり、幼少期の記憶が駆り立てるものでしょう。
しかしこれは、自分のための行為だと言えるのでしょうか。そのときの彼の能力なら戦わず生きていくことはできるはずです。そうすれば、復讐者(ヴィンディチェ)に捕らわれることもなかったでしょう。また、「世界征服」ではなく「世界大戦」であることも引っ掛かります。思うに、骸はどこまでも我が強いように見られますが、その実自分というものが希薄なのではないでしょうか。マフィアと世界に復讐をせねばという義務感に突き動かされ、自分の意思なのかどうかわからなくなっているということです。
この「自分というものが希薄」という解釈は、彼の能力からも補強されます。骸の能力は六道輪廻に由来するものです。彼は、生まれ変わって今の自分ではない誰かになるという現象を誰よりも身近に感じているのです。そんな彼が現在の自分を強く持てなくなってしまうというのは、自然なことのように思えます。
このように、骸にとって自分と他人の境界は曖昧であり、この解釈を用いれば手下となる近しい人物を自分自身と表現することも説明できることが分かりました。
次に、以上の解釈に基づいて言いたいことがあるので、述べようと思います。骸の変化についてです。初期の彼は他人を「おもちゃ」と言い、憑依した味方の体も壊れてしまって構わないという姿勢でした。しかし物語後半の彼は相変わらず独特な価値観が見られるものの、味方となる人々を仲間と認めていることが伺えます。少年漫画特有の、仲間になった元敵が以前よりも丸くなる現象だとも取れますが、前述した結論を用いると少し違った見方ができます。
以前の骸の精神性ですが、彼はマフィアと世界への復讐という動機のために人間すら道具のようにして戦っていました。そしてそれは自分すら例外ではなかったのだと思います。自分自身も目的のために使われる「おもちゃ」だったのです。しかし、現在の彼は違います。沢田綱吉にクロームを任せ、「大事に扱ってください」と言う彼は、同様に他人に自分をまかせたり、自分自身を大切にすることができたりできているのでしょうか。エモですね……。
以上が、六道骸のオタクが初めて原作に触れ、感じ考えたことです。ここまで読んでくださりありがとうございました。
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Maria Trap考察の備忘録
こんにちは。つい先日、ミリシタにMaria Trapが実装され、宙を飛ぶ演出が話題になりましたね。実は私自身Maria Trapがとても好きで、考察記事を読んだりしていたのですが、どうにも上手く消化しきれないでいました。そんななかでのミリシタの演出。小岩井ことりさんの念願をミリシタで叶えた形だったのですが、どうしてか違和感を覚えてしまったのです。まずはその違和感を簡単に説明します。
Maria Trapは今まで天空橋朋花の二面性の曲だと思っていました。ここで言う二面性とは、使命を背負う聖母と年相応の少女の二面性です。曲中でも対照的な掛け合いが繰り広げられており、直感的にも頷ける考えだと思います。しかし、宙を飛ぶというのはあまりにも聖母によりすぎてしまっている演出ではないでしょうか。MVでも朋花の表情は終始力強く、年相応の弱さなどは見当たりません。
これはどういうことだろうと思い、一度しっかり考察しようと思ったわけです。しかし、先に朋花のキャラクター性を軸にして考察しようとしてしまっていたためか、上手くいきませんでした。そんな時とある友人が説明のつく解釈を思いついたと言っており、それを聞きました。その説明は、なるほど納得できる素晴らしいものでした。改めて、ありがとうございます。しかし、やはり考察は自分なりに落とし込まないとすっきりしないもの。願望ももりもりで改めて考察し直してみることにしました。朋花も「わかったフリでは進歩しない」と言っていますし。
この記事の目的は、その友人の考察を聞いたうえで自分なりに落とし込んだ考察を書き留めておくことです。考察が行われた経緯が経緯なのでだいぶんその友人の考察に寄っているところがありそうですし、これからいくらでも自分の中で変化していくのでしょう。その変化を自分で分かりやすくするためにも、この記事を書いておきます。
前置きが長かったような気がしますが、考察を始めていきます。歌詞の引用は以下から行います。
曲 「Maria Trap」
作詞 ZAQ
作曲・編曲 三浦誠司
始めにこの考察では宙を飛ぶ演出、聖母と少女の二面性を持った人物が主人公であること、キリスト教が重要な要素を持っていることを前提としていることを断っておきます。では歌い出しから。
『ため息が 微笑みが
貴方に向けられる
狂わせて...』
ここで、「貴方」という登場人物が出てきました。これをどう考えるかは割と重要です。ネットで見た考察ではこれをプロデューサーと考えるものがありましたが、私はこれを歌の中の主人公にとっての想い人と考えます。なぜなら、歌詞を紐解いていくと「貴方」は聖母としての少女に救済を求めている節があり、プロデューサーと朋花の関係とは重ならないからです。こうすると、主人公も朋花であると考えるよりは単に聖母と少女の二面性を持つ人物と考えた方が都合がよいです。なぜなら、朋花にそのような想い人がいることは全く描かれていないからです。
主人公と「貴方」の関係はどういったものなのでしょうか。この部分から考えると、主人公の少女の部分は「貴方」に強い恋慕の情を抱いているようです。それこそ、「狂わせて」と思うほどに……。
では、次です。
『砂を噛むように吐いた
なぞるだけの旋律
腫れた瞳を誤魔化してる』
ここは、最後の一節から自分の弱さを隠そうとしている様子が見て取れます。すなわち、聖母としての自分を取り繕おうとしているのでしょう。やっとの思いで吐き出した言葉には感情がこもっていないのです。しかし、感情がこもっていないのは問題ではありません。聖母の神聖さのためにはそのようなものは邪魔なのですから。しかし、聖母とは無限の愛情の象徴です。それでよいのでしょうか。これについては次で詳しく述べます。
『「貴方を支配したい」と
囚われのマリア様
崇められるほどに自由を失った』
聖母の使命とは人々の救済ですが、それは相手を支配することに他なりません。しかし、その聖母は囚われた不自由な存在なのです。なぜでしょうか。これは、信仰の対象になっていること自体が不自由さの原因なので、大衆の望む聖母になろうとするからでしょう。しかし、そのような聖母は大衆の自己中心的な願いから生まれたまがい物だと私は考えます。本物の聖母だとしたら、人々に無限の愛情を注ぐことのできる本来の聖母だとしたら、このように信仰によって自由を失うことはないでしょう。
ひとつ前に述べたこともこことつながってきます。すなわち、主人公の持つ聖母という面も本当の聖母には届いていないのです。感情を押し隠すという聖母とは少し異なるアプローチで民衆の支持を得ようするのも、その証拠となるでしょう。このままでは宙を飛ぶような神性を持つことはできません。それでは、これからどうなっていくのでしょうか。
『太陽と月 光と影
虚栄と実像 欲望と理性
欺きと真実』
ここでは、対照的なものが次々と歌われます。少女と聖母はそれぞれどちらを象徴しているのでしょうか。思うに、どちらでもあるのでしょう。うら若い少女と不完全な聖母は、そのどちらも持ち合わせています。特に、太陽と月は合わせて森羅万象を表したりするようです。これは、二つの面が合わさって主人公が完成するということではないでしょうか。どちらもその人物にとっては無くてはならないものなのです。太陽がなければ月は光れないですし、光がなければ影はできないです。虚栄は実像がないと意味を成しませんし、欲望と理性も対を成すものです。欺きと真実も、互いに補完する関係です。コーラスも二つに分かれていますが、ここではその声色は変わりません。
『やめて 惑わせて
来ないで 抱きしめて
聞かせて 言わせて
終わらせて 動かして
愛してる』
ここでは、明らかに声色が使い分けられています。前者が追い詰められたような高い声、後者が余裕のあるどこか妖しい低い声です。この言葉は誰に対して投げかけられているのでしょうか。これは、最後の「愛してる」から明らかでしょう。聖母としても少女としても愛を伝えるべき「貴方」です。聖母は救済のため、少女は恋慕のためとその動機は異なりますがね。それでは、どちらがどちらの面の言葉なのでしょうか。私は前者が少女、後者が聖母だと考えました。聖母が「惑わせて」「抱きしめて」と言うのは奇妙な気がします。実際ここは自信がないので参考程度に思ってもらいたいのですが、これも歪んだ聖母だからこそだと思います。相手の情念をこのような形で受け入れることに抵抗がないのです。一方少女は救済を求める「貴方」の言葉を拒絶します。自分のすべてを受け入れてほしいと母親に向けるようなわがままを言う想い人など、見たくありませんから。ただ、このどうしようもない状況を「終わらせて」と願うだけです。また「聞かせて」「言わせて」の部分ですが、これはどちらも愛の言葉を、ということだと思います。しかし、愛情を相手に与えるということは自分が主導権を得ることに他なりません。だからこそ聖母は言うことを望み、少女は聞くことを望むのでしょう。
この考察を踏まえると、「貴方」と主人公のこの時点での関係が分かります。すなわち、「貴方」は聖母としての主人公に救済を乞う立場というわけです。この時点では、主人公の持つ少女としての面には気づいていません。
次です。
『依存のループに 撃ち堕としたはずなのに
罪ね 貴方が欲しい』
罪となる感情に突き動かされようとしているのは少女の方でしょう。歪んだ関係ではなく、少女としての自分が「貴方」と結ばれることを望んでいます。では、「依存のループ」とは何でしょうか。この罪と対称を成すことであるので、「貴方」が聖母なしでは生きられないようにすることです。聖母が信仰によって存在できるので、その依存を含めて「ループ」と考えることもできますね。どちらでも大意は変わらないでしょう。
個人的に引っかかったのは、なぜ「撃ち堕とした」なのかというところです。聖母に依存する前の「貴方」は依存する後よりも高い位置にいたように読めます。これも、やはり聖母の救済がいびつなものであるということを示しているということで納得しておきます。完全にしっくりは来ていませんが……。
『綺麗でしょう 強いでしょう
さぁ汚してみせて
貴方にとって唯のマリアで善いわ
幻を 永遠を 抱くように求めてよ
罠と知らずに』
汚してほしいと願っているのは少女の面の方でしょう。「貴方」が自分を聖母として見て手を出さないという状況を変えてほしいという願望の発露です。しかし、「貴方」にとっての救いであることはやめようとしません。なぜでしょうか。これは、最初の節からも読み取れるように少女にとっても聖母としての自分は大切で、自負を持っているからでしょう。人々を救済したいと願うのは同じなのです。そもそも、少女と聖母の二つの面は完璧に分かれているものではありません。それが、この自負と「貴方」への態度に現れていると考えています。
そして、ここでの「罠」というのは、少女は知っているが「貴方」は知らない「罠」です。すなわち、「貴方」が聖母だと思っているものは少女という面も持っているだけでなく、聖母としてもまがい物であるという事実です。
『「世紀末を越えても 愛の歌はあるかな」
遠い空に問い掛けた』
少女の問です。世紀末を越えた世界とは最後の審判が下された後の世界です。そのとき、主人公は聖母の使命から解放され、自由になっていることでしょう。しかし、そんな世の中にまだ「愛」というものが残っているかは神のみぞ知ります。「遠い空」とはそんな神が存在しているところであり、今自分が生きている社会から遠く離れたところでもあります。
『「退屈な疑いは 未来を産まないよ」と
貴方は優しいのに
側にはいてくれない』
「貴方」の言葉です。やはり、主人公のことを聖母として扱っていますし、そうとしか知らないのでしょう。関係を持ったためか多少意見するようにはなっていますが、崇拝するように「側には」寄らず、最後の審判までの未来のために救済をするように求めます。信者にとっては最後の審判までが重要であり、それ以降の事象は考える必要などないのですから。
『完璧とは終わりのことよ
完成とは絶望のことよ
眩しさの裏は冥界のよう
月に見下されているよう』
ここも、声色が変えられている部分です。第一節と第三節は余裕のある妖しい高い声、第二節と第四節が自棄になったようなガラの悪い低い声です。私は、今度は前者が聖母、後者が少女だと考えました。聖母は最後の審判をこの世を完全に救済して迎えたいと考え、救済が完了した時点でこの世は終わったも同然と考えます。一方で少女は、そのような状況は絶望に他なりません。愛が叶うことはもうあり得ないのですから。また、冥界というのは信仰から最も遠いところにあり、聖母は自己の正当性を主張しています。一方で少女は、月(死の象徴)に嫌悪を示し、自身の罪深さを認識しています。
『凍った心のまま貴方が欲しい
美しいままで乱れてみたい
嘘を愛して貰いたい
嘘を見抜いて貰いたい
信じないで』
ここでは、先程聖母とした声が第二節と第四節を、少女とした声が第一節と第三節を歌っています。しかし、ここでは徐々に二つの声の音程や声色が近づいてきています。その内容も、二つの意思が混ざり合っているように思います。凍った心、すなわち感情をなくした聖母のまま「貴方」を欲したり、美しいまま、すなわち聖母のままで乱れたいと望んだりという具合です。また、「嘘」というのは聖母の皮をかぶった少女のことでもありますし、少女を隠し持った聖母のことでもあります。自分でも自分が分からなくなってしまい、「信じないで」と言うしかないのだと思います。しかし、愛してほしいのも見抜いてほしいのも少女の持っていた恋慕に由来します。次で読み取れるように、主人公はようやく自分の中の少女という面を「貴方」にさらけ出し、求めてもらおうとしたのです。それがどんな結果を生むのか知らずに……。
『叫ぶ胸は 貴方の背で震えた
嫌よ どこにも行かないで』
読んだままです。「貴方」へ明確に少女としての恋慕を告げたことになります。「どこにも行かないで」という要求は聖母がするものではありませんから。
『傷ついて 傷つけた
理性は雲の向こう
ガラスの仮面は割れ マリアも泣いた
欺かれ 欺いて 二人は闇で気づく
「罠だった...」』
ついに「貴方」は主人公の少女としての面に気づくことになります。これによって「貴方」を傷つけた主人公は、同様に「貴方」の拒絶に傷つくことになります。また、少女としての面が認識されたことで聖母のカリスマには傷がつき、聖母も悲しみます。そうして、「貴方」にとっては救済してくれると思っていた存在がまがい物だという「罠」に、主人公はありのままの自分を拒絶されることによって聖母としても少女としても大きな傷を負うという「罠」に気づきます。しかし、もう手遅れです。主人公の二つの面はともに死んでしまいます。
『兎の歌 蝶が躍る
夢に溶けてく
これは醒めない レクイエム』
兎は、キリスト教においてイエスの復活を祝う復活祭の象徴です。カトリックではキリストの復活を最初に知った動物だという伝説もあるそうです。また、キリスト教における蝶は復活の象徴だそうです。すなわち、一度精神的な死を迎えた主人公は復活を遂げます。それも、ただ復活したのではありません。夢というのはキリスト教では神からのお告げを受ける場所としてメジャーです。つまり、大衆からの願いなどではなく神による真の奇跡によって、まがい物だった聖母とただの少女は一つのより神性の強い存在へと生まれ変わったのです。レクイエム、つまり鎮魂歌は死んでしまった二つの面に対するものでしょう。主人公が存在している限り古い魂は鎮魂歌を止むことなく聞き続けるのです。
『ため息が 微笑みが
貴方に向けられる
表裏の濁りさえもマリアは許す
裏切りも 愛してく 茨の鎖を背負う
もう戻れない 愛の罠に
狂わせて...』
ラストです。真の聖母となった主人公はあのようなことがあった後でも「貴方」を慈しむことができます。完全に混ざり合った自己の二つの面も受け入れることができます。ここで、新しい主人公は以前の少女であるとも言えるし、ないとも言えます。以前の聖母であるとも言えるし、ないとも言えます。ただ、一つの存在である彼女はもう狂ったりしないでしょう。
しかし、「愛の罠に狂わせて」と願った少女の感情も残っています。絶対に狂わない彼女は、それでも狂うことを望むことをやめません。(ここの解釈もすっきりしませんが。)それでも、裏切りを愛して茨の鎖を背負うことのできる彼女は、間違いなく本物の聖母なのでしょう。
この物語は、朋花にとって何なのでしょうか。未来にあり得ること。別のいわゆるパラレルワールドであるかもしれないこと。もしくは、過去にあったこと。これは全く分かりません。ただ一つ言えるのは、朋花には始めから少女としての彼女を見て、認めてくれる仲間やPがいるということです。そのような存在がいれば、精神的な死などということが彼女に起こることはないでしょう。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。繰り返しになりますが、この考察は私の中で今後いくらでも変化していくのでしょう。(ライブでこれ聴いたら強さで解釈とか全部吹き飛ばされるんだろうな……。)