Maria Trap考察の備忘録

 

こんにちは。つい先日、ミリシタにMaria Trapが実装され、宙を飛ぶ演出が話題になりましたね。実は私自身Maria Trapがとても好きで、考察記事を読んだりしていたのですが、どうにも上手く消化しきれないでいました。そんななかでのミリシタの演出。小岩井ことりさんの念願をミリシタで叶えた形だったのですが、どうしてか違和感を覚えてしまったのです。まずはその違和感を簡単に説明します。

Maria Trapは今まで天空橋朋花の二面性の曲だと思っていました。ここで言う二面性とは、使命を背負う聖母と年相応の少女の二面性です。曲中でも対照的な掛け合いが繰り広げられており、直感的にも頷ける考えだと思います。しかし、宙を飛ぶというのはあまりにも聖母によりすぎてしまっている演出ではないでしょうか。MVでも朋花の表情は終始力強く、年相応の弱さなどは見当たりません。

これはどういうことだろうと思い、一度しっかり考察しようと思ったわけです。しかし、先に朋花のキャラクター性を軸にして考察しようとしてしまっていたためか、上手くいきませんでした。そんな時とある友人が説明のつく解釈を思いついたと言っており、それを聞きました。その説明は、なるほど納得できる素晴らしいものでした。改めて、ありがとうございます。しかし、やはり考察は自分なりに落とし込まないとすっきりしないもの。願望ももりもりで改めて考察し直してみることにしました。朋花も「わかったフリでは進歩しない」と言っていますし。

この記事の目的は、その友人の考察を聞いたうえで自分なりに落とし込んだ考察を書き留めておくことです。考察が行われた経緯が経緯なのでだいぶんその友人の考察に寄っているところがありそうですし、これからいくらでも自分の中で変化していくのでしょう。その変化を自分で分かりやすくするためにも、この記事を書いておきます。

前置きが長かったような気がしますが、考察を始めていきます。歌詞の引用は以下から行います。

 

                 曲 「Maria Trap

                 作詞 ZAQ

                 作曲・編曲 三浦誠司

                 歌 天空橋朋花CV.小岩井ことり

 

始めにこの考察では宙を飛ぶ演出、聖母と少女の二面性を持った人物が主人公であること、キリスト教が重要な要素を持っていることを前提としていることを断っておきます。では歌い出しから。

 

    『ため息が 微笑みが

    貴方に向けられる

    狂わせて...

 

ここで、「貴方」という登場人物が出てきました。これをどう考えるかは割と重要です。ネットで見た考察ではこれをプロデューサーと考えるものがありましたが、私はこれを歌の中の主人公にとっての想い人と考えます。なぜなら、歌詞を紐解いていくと「貴方」は聖母としての少女に救済を求めている節があり、プロデューサーと朋花の関係とは重ならないからです。こうすると、主人公も朋花であると考えるよりは単に聖母と少女の二面性を持つ人物と考えた方が都合がよいです。なぜなら、朋花にそのような想い人がいることは全く描かれていないからです。

主人公と「貴方」の関係はどういったものなのでしょうか。この部分から考えると、主人公の少女の部分は「貴方」に強い恋慕の情を抱いているようです。それこそ、「狂わせて」と思うほどに……。

では、次です。

 

    『砂を噛むように吐いた

    なぞるだけの旋律

    腫れた瞳を誤魔化してる』

 

 ここは、最後の一節から自分の弱さを隠そうとしている様子が見て取れます。すなわち、聖母としての自分を取り繕おうとしているのでしょう。やっとの思いで吐き出した言葉には感情がこもっていないのです。しかし、感情がこもっていないのは問題ではありません。聖母の神聖さのためにはそのようなものは邪魔なのですから。しかし、聖母とは無限の愛情の象徴です。それでよいのでしょうか。これについては次で詳しく述べます。

 

    『「貴方を支配したい」と

    囚われのマリア様

    崇められるほどに自由を失った』

 

 聖母の使命とは人々の救済ですが、それは相手を支配することに他なりません。しかし、その聖母は囚われた不自由な存在なのです。なぜでしょうか。これは、信仰の対象になっていること自体が不自由さの原因なので、大衆の望む聖母になろうとするからでしょう。しかし、そのような聖母は大衆の自己中心的な願いから生まれたまがい物だと私は考えます。本物の聖母だとしたら、人々に無限の愛情を注ぐことのできる本来の聖母だとしたら、このように信仰によって自由を失うことはないでしょう。

 ひとつ前に述べたこともこことつながってきます。すなわち、主人公の持つ聖母という面も本当の聖母には届いていないのです。感情を押し隠すという聖母とは少し異なるアプローチで民衆の支持を得ようするのも、その証拠となるでしょう。このままでは宙を飛ぶような神性を持つことはできません。それでは、これからどうなっていくのでしょうか。

 

    『太陽と月 光と影

    虚栄と実像 欲望と理性

    欺きと真実』

 

 ここでは、対照的なものが次々と歌われます。少女と聖母はそれぞれどちらを象徴しているのでしょうか。思うに、どちらでもあるのでしょう。うら若い少女と不完全な聖母は、そのどちらも持ち合わせています。特に、太陽と月は合わせて森羅万象を表したりするようです。これは、二つの面が合わさって主人公が完成するということではないでしょうか。どちらもその人物にとっては無くてはならないものなのです。太陽がなければ月は光れないですし、光がなければ影はできないです。虚栄は実像がないと意味を成しませんし、欲望と理性も対を成すものです。欺きと真実も、互いに補完する関係です。コーラスも二つに分かれていますが、ここではその声色は変わりません。

 

    『やめて 惑わせて

    来ないで 抱きしめて

    聞かせて 言わせて

    終わらせて 動かして

    愛してる』

 

 ここでは、明らかに声色が使い分けられています。前者が追い詰められたような高い声、後者が余裕のあるどこか妖しい低い声です。この言葉は誰に対して投げかけられているのでしょうか。これは、最後の「愛してる」から明らかでしょう。聖母としても少女としても愛を伝えるべき「貴方」です。聖母は救済のため、少女は恋慕のためとその動機は異なりますがね。それでは、どちらがどちらの面の言葉なのでしょうか。私は前者が少女、後者が聖母だと考えました。聖母が「惑わせて」「抱きしめて」と言うのは奇妙な気がします。実際ここは自信がないので参考程度に思ってもらいたいのですが、これも歪んだ聖母だからこそだと思います。相手の情念をこのような形で受け入れることに抵抗がないのです。一方少女は救済を求める「貴方」の言葉を拒絶します。自分のすべてを受け入れてほしいと母親に向けるようなわがままを言う想い人など、見たくありませんから。ただ、このどうしようもない状況を「終わらせて」と願うだけです。また「聞かせて」「言わせて」の部分ですが、これはどちらも愛の言葉を、ということだと思います。しかし、愛情を相手に与えるということは自分が主導権を得ることに他なりません。だからこそ聖母は言うことを望み、少女は聞くことを望むのでしょう。

 この考察を踏まえると、「貴方」と主人公のこの時点での関係が分かります。すなわち、「貴方」は聖母としての主人公に救済を乞う立場というわけです。この時点では、主人公の持つ少女としての面には気づいていません。

 次です。

 

    『依存のループに 撃ち堕としたはずなのに

    罪ね 貴方が欲しい』

 

 罪となる感情に突き動かされようとしているのは少女の方でしょう。歪んだ関係ではなく、少女としての自分が「貴方」と結ばれることを望んでいます。では、「依存のループ」とは何でしょうか。この罪と対称を成すことであるので、「貴方」が聖母なしでは生きられないようにすることです。聖母が信仰によって存在できるので、その依存を含めて「ループ」と考えることもできますね。どちらでも大意は変わらないでしょう。

個人的に引っかかったのは、なぜ「撃ち堕とした」なのかというところです。聖母に依存する前の「貴方」は依存する後よりも高い位置にいたように読めます。これも、やはり聖母の救済がいびつなものであるということを示しているということで納得しておきます。完全にしっくりは来ていませんが……。

 

    『綺麗でしょう 強いでしょう

    さぁ汚してみせて

    貴方にとって唯のマリアで善いわ

    幻を 永遠を 抱くように求めてよ

    罠と知らずに』

 

 汚してほしいと願っているのは少女の面の方でしょう。「貴方」が自分を聖母として見て手を出さないという状況を変えてほしいという願望の発露です。しかし、「貴方」にとっての救いであることはやめようとしません。なぜでしょうか。これは、最初の節からも読み取れるように少女にとっても聖母としての自分は大切で、自負を持っているからでしょう。人々を救済したいと願うのは同じなのです。そもそも、少女と聖母の二つの面は完璧に分かれているものではありません。それが、この自負と「貴方」への態度に現れていると考えています。

 そして、ここでの「罠」というのは、少女は知っているが「貴方」は知らない「罠」です。すなわち、「貴方」が聖母だと思っているものは少女という面も持っているだけでなく、聖母としてもまがい物であるという事実です。

 

    『「世紀末を越えても 愛の歌はあるかな」

    遠い空に問い掛けた』

 

 少女の問です。世紀末を越えた世界とは最後の審判が下された後の世界です。そのとき、主人公は聖母の使命から解放され、自由になっていることでしょう。しかし、そんな世の中にまだ「愛」というものが残っているかは神のみぞ知ります。「遠い空」とはそんな神が存在しているところであり、今自分が生きている社会から遠く離れたところでもあります。

 

    『「退屈な疑いは 未来を産まないよ」と

    貴方は優しいのに

    側にはいてくれない』

 

 「貴方」の言葉です。やはり、主人公のことを聖母として扱っていますし、そうとしか知らないのでしょう。関係を持ったためか多少意見するようにはなっていますが、崇拝するように「側には」寄らず、最後の審判までの未来のために救済をするように求めます。信者にとっては最後の審判までが重要であり、それ以降の事象は考える必要などないのですから。

 

    『完璧とは終わりのことよ

    完成とは絶望のことよ

    眩しさの裏は冥界のよう

    月に見下されているよう』

 

 ここも、声色が変えられている部分です。第一節と第三節は余裕のある妖しい高い声、第二節と第四節が自棄になったようなガラの悪い低い声です。私は、今度は前者が聖母、後者が少女だと考えました。聖母は最後の審判をこの世を完全に救済して迎えたいと考え、救済が完了した時点でこの世は終わったも同然と考えます。一方で少女は、そのような状況は絶望に他なりません。愛が叶うことはもうあり得ないのですから。また、冥界というのは信仰から最も遠いところにあり、聖母は自己の正当性を主張しています。一方で少女は、月(死の象徴)に嫌悪を示し、自身の罪深さを認識しています。

 

    『凍った心のまま貴方が欲しい

    美しいままで乱れてみたい

    嘘を愛して貰いたい

    嘘を見抜いて貰いたい

    信じないで』

 

 ここでは、先程聖母とした声が第二節と第四節を、少女とした声が第一節と第三節を歌っています。しかし、ここでは徐々に二つの声の音程や声色が近づいてきています。その内容も、二つの意思が混ざり合っているように思います。凍った心、すなわち感情をなくした聖母のまま「貴方」を欲したり、美しいまま、すなわち聖母のままで乱れたいと望んだりという具合です。また、「嘘」というのは聖母の皮をかぶった少女のことでもありますし、少女を隠し持った聖母のことでもあります。自分でも自分が分からなくなってしまい、「信じないで」と言うしかないのだと思います。しかし、愛してほしいのも見抜いてほしいのも少女の持っていた恋慕に由来します。次で読み取れるように、主人公はようやく自分の中の少女という面を「貴方」にさらけ出し、求めてもらおうとしたのです。それがどんな結果を生むのか知らずに……。

 

    『叫ぶ胸は 貴方の背で震えた

    嫌よ どこにも行かないで』

 

 読んだままです。「貴方」へ明確に少女としての恋慕を告げたことになります。「どこにも行かないで」という要求は聖母がするものではありませんから。

 

    『傷ついて 傷つけた

    理性は雲の向こう

    ガラスの仮面は割れ マリアも泣いた

    欺かれ 欺いて 二人は闇で気づく

    「罠だった...」』

 

 ついに「貴方」は主人公の少女としての面に気づくことになります。これによって「貴方」を傷つけた主人公は、同様に「貴方」の拒絶に傷つくことになります。また、少女としての面が認識されたことで聖母のカリスマには傷がつき、聖母も悲しみます。そうして、「貴方」にとっては救済してくれると思っていた存在がまがい物だという「罠」に、主人公はありのままの自分を拒絶されることによって聖母としても少女としても大きな傷を負うという「罠」に気づきます。しかし、もう手遅れです。主人公の二つの面はともに死んでしまいます。

 

    『兎の歌 蝶が躍る

    夢に溶けてく

    これは醒めない レクイエム』

 

 兎は、キリスト教においてイエスの復活を祝う復活祭の象徴です。カトリックではキリストの復活を最初に知った動物だという伝説もあるそうです。また、キリスト教における蝶は復活の象徴だそうです。すなわち、一度精神的な死を迎えた主人公は復活を遂げます。それも、ただ復活したのではありません。夢というのはキリスト教では神からのお告げを受ける場所としてメジャーです。つまり、大衆からの願いなどではなく神による真の奇跡によって、まがい物だった聖母とただの少女は一つのより神性の強い存在へと生まれ変わったのです。レクイエム、つまり鎮魂歌は死んでしまった二つの面に対するものでしょう。主人公が存在している限り古い魂は鎮魂歌を止むことなく聞き続けるのです。

 

    『ため息が 微笑みが

    貴方に向けられる

    表裏の濁りさえもマリアは許す

    裏切りも 愛してく 茨の鎖を背負う

    もう戻れない 愛の罠に

    狂わせて...

 

ラストです。真の聖母となった主人公はあのようなことがあった後でも「貴方」を慈しむことができます。完全に混ざり合った自己の二つの面も受け入れることができます。ここで、新しい主人公は以前の少女であるとも言えるし、ないとも言えます。以前の聖母であるとも言えるし、ないとも言えます。ただ、一つの存在である彼女はもう狂ったりしないでしょう。

しかし、「愛の罠に狂わせて」と願った少女の感情も残っています。絶対に狂わない彼女は、それでも狂うことを望むことをやめません。(ここの解釈もすっきりしませんが。)それでも、裏切りを愛して茨の鎖を背負うことのできる彼女は、間違いなく本物の聖母なのでしょう。

この物語は、朋花にとって何なのでしょうか。未来にあり得ること。別のいわゆるパラレルワールドであるかもしれないこと。もしくは、過去にあったこと。これは全く分かりません。ただ一つ言えるのは、朋花には始めから少女としての彼女を見て、認めてくれる仲間やPがいるということです。そのような存在がいれば、精神的な死などということが彼女に起こることはないでしょう。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。繰り返しになりますが、この考察は私の中で今後いくらでも変化していくのでしょう。(ライブでこれ聴いたら強さで解釈とか全部吹き飛ばされるんだろうな……。)